W杯を見てて思うVARの正体

サッカーワールドカップを見ていて、思うことがあります。

サッカーには、前向きな楽しさがあります。
選手たちの技術は年々進化し、スピードも判断力も高まり、見ていて純粋に驚かされる場面も多いです。

一方で、VARがもたらした窮屈さと、結局のところ残り続ける曖昧さには、少しモヤモヤします。

ポルトガル対クロアチア戦。
ロスタイムに決まったかに見えたクロアチアの同点ゴールは、オフサイドの判定によって取り消されました。

ノルウェー対イングランド戦。
ノルウェーの幻の勝ち越しゴールでは、ゴール前でのポジション争いの中で、ハーランドのプレーがファウルと判定されました。

ゴール前では、駆け引きがあります。
身体をぶつけ合い、場所を取り合い、ときには少しいざこざも起きる。

それもまた、サッカーの一部ではなかったでしょうか。

アルゼンチン対エジプト戦でも、エジプトの追加点が取り消されました。

VARによって、サッカーは本当に公平になったのでしょうか。

同じようにモヤモヤしている人も、少なくないのではないかと思います。

もちろん、明らかな見逃しや誤審を減らすという意味で、VARには大きな意義があります。

オフサイドなのか。
ボールに触れていたのか。
接触があったのか。

そうした事実は、映像によって以前より正確に確認できるようになりました。

しかし、接触があったとして、それをファウルとするのか。
どこまでを一連のプレーとして遡るのか。
ゴールを取り消すほどの影響があったと考えるのか。

最後は、やはり人が判断します。

VARは、サッカーから曖昧さをなくしたのではありません。

曖昧さを、別の場所へ移しただけなのかもしれません。

以前は、主審がその場で下した一瞬の判定に曖昧さがありました。

今は、何度も映像を確認した後に、どの接触を取り上げ、どの程度重く評価するのかという部分に曖昧さがあります。

しかも、VARで確認した後の判定には、どこか「十分に検証された判定」という権威が加わります。

映像で確認したのだから正しい。
何度も見直したのだから間違いない。

そう言われると、以前よりも反論しにくい。

そこに、窮屈さを感じます。

世の中もそうです。
医療の世界もそうです。

問題が起きるたびにルールは複雑になり、監視の目はどんどん厳しくなっていきます。

記録を残す。
確認する。
承認を得る。
責任の所在を明確にする。

もちろん、それぞれには理由があります。

誰かを守るためにつくられたルールも多いでしょう。
事故や不正を防ぐために、必要な仕組みもあります。

ただ、その一方で、「遊び」の部分が少しずつ削られていきます。

ここでいう遊びとは、いい加減さではありません。

相手を信頼すること。
個別の事情を考慮すること。
現場の裁量を認めること。
少し余白を残すこと。

そうした、人間が人間らしく判断するための部分です。

ルールを細かくしていけば、すべてが明確になるように思えます。

しかし実際には、ルールが複雑になるほど、

どのルールを使うのか。
どの場面で適用するのか。
どの程度厳しく運用するのか。

そこに、また新しい曖昧さが生まれます。

そして、VARで確認した後の判定にも、結局のところ曖昧さがあります。

しかも、それは必ずしも、いい意味での曖昧さではありません。

何か力を働かせるための曖昧さが、あらかじめ用意されているのではないか。

そんなふうに、つい勘繰ってしまいます。

もちろん、誰かが意図的にすべてを操作しているとまで言いたいわけではありません。

ただ、公平さを求めてつくられた仕組みが、結果として、立場の強い側に利用されやすい余白を生んでしまうことはあります。

ルールが公平に見えることと、実際に公平に使われることは、同じではありません。

スポーツでは、そうした判定や逆境すら、力に変える場面があります。

不利な判定の後に、もう一度ゴールを奪う。
怒りを集中力に変える。
理不尽さを、勝利によって乗り越える。

そういう場面に、私たちは心を動かされます。

しかし社会の中では、なかなかそうもいきません。

理不尽を感じながらも、声を上げられない人もいます。

ルールの曖昧さを利用した力関係を、日々痛感している人もいるでしょう。

では、どうすればいいのでしょうか。

ルールを悪用するのでもない。
ルールをすり抜けるのでもない。

大事なのは、ルールと構造を理解することなのかもしれません。

なぜ、そのルールがあるのか。
誰を守るためのものなのか。
誰に有利に働き、誰に負担を強いるのか。
そして、どこに曖昧さが残されているのか。

それを理解したうえで、必要以上に、その土俵に上がらないこと。

社会の外に出ることはできません。
医療の世界から完全に離れることもできません。
サッカー選手が、判定を理由にピッチを降りるわけにもいきません。

それでも、他人がつくった評価軸だけで、自分の価値まで決めさせないことはできます。

ルールを破らず、ルールに支配されすぎず、構造を見ながら距離を取る。

自分が勝てないようにつくられたゲームに、必要以上に自分を賭けない。

VARは、サッカーから曖昧さをなくしたのではありません。

曖昧さを、より見えにくく、より反論しにくい場所へ移した。

サッカーを見ながら、そんな現代社会の姿まで重ねてしまいました。

Oyaji Diary

onorenoo

おのれ

@onorenoo

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