デジタル教科書と、変えてはいけないもの

先日、Xで作家の俵万智さんが、デジタル教科書に関して一石を投じる文章を書いているのを見かけました。

賛成も反対も、同調も反論も、いろいろな意見がありました。

こういう問題は、本当に難しい。

デジタル教科書は良いのか。
紙の教科書の方が良いのか。
子どもの学力にどう影響するのか。
集中力は落ちるのか。
目は悪くなるのか。
思考力は育つのか。

白黒つけることは、不可能に近いと思います。

もちろん、議論すること自体は大事です。
教育現場に新しいものを入れる以上、その影響を考えないのは無責任です。

ただ一方で、教育のように多くの要素が絡み合うものを、簡単に「エビデンス」で裁こうとする空気には、少し違和感があります。

エビデンスが好きな人は一定数います。

それ自体は悪いことではありません。
学問として傾向をつかみ、検証し、次につなげていくことには価値があります。

でも、教育ほどエビデンスの評価が難しい分野もないのではないでしょうか。

家庭環境。
親の関わり方。
本人の性格。
友人関係。
先生との相性。
地域性。
時代背景。
その子が何に興味を持ったか。

あまりにも多くの要素が絡みます。

昔、子どもにおもちゃを4個与えたグループと、20個与えたグループで、集中力や遊び方に差が出たというような実験があった気がします。

おもちゃを与えすぎるのはよくない。
少ない方が創造性が育つ。
そんな文脈で語られる話だったと思います。

でも、普通に考えて、一気に20個もおもちゃを与えられたら、子どもはまず迷います。

それぞれの特徴を見る。
好き嫌いを考える。
どう組み合わせるか考える。
どれから遊ぶか悩む。
その時点で、何日も経ってしまうかもしれません。

そんなこと、考えたらわかることでもあります。

もちろん、それを実験として示すことには意味があります。
でも、何でもかんでも「明確なエビデンス」にしないと人を黙らせることができないというのは、なんだかなあと思います。

エビデンスは大事です。

でも、エビデンスは時に、誰かの教育論を正当化するための「だし」に使われることがあります。

マーケティングにも使われる。
偉い人の主張にも使われる。
都合のいい結論だけが切り取られる。

それはもはや、学問というより、印籠です。

「この研究ではこう出ています」

と言われると、多くの人は黙ってしまう。

でも、実生活はそんなに単純ではありません。

デジタル教科書も同じです。

デジタルだから悪い。
紙だから良い。

そんな単純な話ではないと思います。

紙には紙の良さがあります。
ページをめくる感覚。
余白に書き込む感覚。
全体を俯瞰する感覚。
手で触れながら覚えていく感覚。

これは、たしかにデジタルでは失われやすいものかもしれません。

一方で、デジタルにはデジタルの良さがあります。

動画で理解できる。
音声で学べる。
拡大できる。
検索できる。
荷物が軽くなる。
個別最適化もしやすい。

これもまた、無視できない利点です。

だから大事なのは、デジタル教科書を入れるか入れないかではなく、

何を変えてよくて、何を変えてはいけないのか

を考えることだと思います。

教育制度は、時代に合わせて変わっていくべきです。
道具も変わっていくべきです。
学び方も変わっていくべきです。

でも、変えてはいけないものもある。

子どもが自分の頭で考えること。
わからないことに向き合うこと。
興味を持つこと。
試行錯誤すること。
誰かと話しながら理解を深めること。
自分の感覚で世界に触れること。

これは、紙でもデジタルでも変えてはいけないものだと思います。

新しい教育に挑戦すること自体は、責められるべきではありません。

ゆとり教育もそうです。
詰め込み教育もそうです。
Z世代もそうです。

その世代が犠牲になった。
あの教育は失敗だった。
最近の若者は。
昔の教育は良かった。

そうやって、後から好き勝手に評価することは簡単です。

でも、どの世代からも優秀な人材は生まれています。

結局、与えられる教育だけが、教育のすべてではないのだと思います。

学校で何を習ったか。
どんな教科書を使ったか。
どんな制度の中で育ったか。

それももちろん大事です。

でも、それ以上に大事なのは、

自分の興味で学びに向かう力

ではないでしょうか。

知りたい。
やってみたい。
なぜだろう。
もっと知りたい。

その知的好奇心がある子は、紙でも学ぶ。
デジタルでも学ぶ。
図鑑でも学ぶ。
YouTubeでも学ぶ。
人との会話からも学ぶ。

逆に、その火が消えてしまえば、どれだけ立派な教科書を与えても、学びはただの作業になります。

では、その知的好奇心はどこで育つのか。

これはやっぱり、幼少期なのかなと感じます。

自然に触れること。
不思議だと思うこと。
大人とたくさん話すこと。
自分で失敗すること。
うまくいかないことに出会うこと。
誰かに教えられる前に、自分で感じること。

そういう時間の中で、子どもの中に「知りたい」という芽が育つのではないかと思います。

デジタル教科書が悪いのではない。
紙の教科書が絶対に正しいわけでもない。

問題は、その道具が子どもの知的好奇心を広げる方向に使われているのか。
それとも、ただ効率よく処理するための道具になっているのか。

そこだと思います。

変化を受け入れることは大事です。

時代は変わります。
子どもたちが生きる未来も、僕らが子どもだった頃とはまったく違います。

だから、昔のやり方だけを正義にしてはいけない。

でも同時に、変えてはいけないものを見失ってもいけない。

教育の道具は変わっていい。
教科書の形も変わっていい。
学び方も変わっていい。

でも、子どもが世界に驚くこと。
自分の頭で考えること。
誰かと対話すること。
知る喜びを感じること。

そこだけは、変えてはいけない。

デジタル教科書の議論で本当に問われているのは、
タブレットか紙かではなく、

僕たちは、子どもに何を残したいのか

ということなのだと思います。

 

でも、人類っていつまで経っても「過渡期」ですよね。

完成された時代なんてない

流れの中に身を置いています。

その感覚が大事なんだと思います。

 

Oyaji Diary

onorenoo

おのれ

@onorenoo

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