人が自らを殺めること

通勤の電車が、人身事故で遅れている時。

ネットニュースで、人身事故による遅延の知らせを見る時。

ふと、考えることがあります。

その人には、もうそれ以外の道が見えなかったのだろうか、と。

そして、時間が経てば、電車はまた動き出す。

駅のホームには人が戻り、街はいつものように流れ始める。

みんなの生活も、何事もなかったかのように動き出す。

でも、その人の時間だけは、そこで止まってしまう。

人が自らを殺める理由は、簡単には語れません。

仕事の苦しさ。

健康の苦しさ。

生活の苦しさ。

人間関係の苦しさ。

大きく分ければ、この4つがあるのかもしれません。

ただ、実際にはそれぞれが単独で来るわけではない。

絡み合います。

仕事がつらい。

眠れない。

体調が悪くなる。

家族に優しくできなくなる。

職場で孤立する。

収入や将来が不安になる。

相談できなくなる。

判断力が落ちる。

こうなると、「理由」は1つではなくなります。

厚労省の自殺対策の説明でも、自殺は単なる瞬間的な行為ではなく、過労、生活困窮、育児や介護の疲れ、いじめ、孤立など、さまざまな社会的要因によって追い込まれていくプロセスとして捉える必要があるとされています。

だから、僕は「自殺の理由」を語るとき、
原因というより、
その人を追い込んだ圧力の束
と考える方が近い気がします。

しかも、生きている人間ですら、自分が本当は何に苦しんでいるのか、完全には言語化できないことがあります。

仕事がつらいと思っていたけれど、本当は孤独がつらかったのかもしれない。

病気がつらいと思っていたけれど、本当は未来が見えないことがつらかったのかもしれない。

お金がつらいと思っていたけれど、本当は誰にも頼れないことがつらかったのかもしれない。

人間の苦しみは、そんなにきれいに分類できるものではありません。

まして、亡くなった方について、周囲が後から、

「仕事が原因だった」

「病気が原因だった」

「家庭が原因だった」

と一言でまとめるのは、どうしても乱暴さが残ります。

亡くなった人は、もう自分の言葉で説明することができない。

だからこそ、自殺について語る時に必要なのは、犯人探しではないのだと思います。

もちろん、責任を問うべき場面はあるでしょう。

過労、いじめ、ハラスメント、生活困窮、制度の不備。

見過ごしてはいけないものは、確かにあります。

でも、それと同時に、僕たちは考えなければいけない。

その人が最後に見ていた世界は、どれほど狭くなっていたのか。

健康の苦でも、生活の苦でも、仕事の苦でも、人間関係の苦でも、最終的に共通しているのは、たぶん、逃げ道が見えなくなることです。

本当は逃げ道があったとしても、本人には見えなくなる。

本当は時間が解決することでも、永遠に続くように感じる。

本当は助けてくれる人がいても、「自分には言えない」と思ってしまう。

人は、弱いから死を選ぶのではない。

見える世界が、そこまで狭くなってしまうことがある。

追い込まれるというのは、そういうことなのだと思います。

だから、自殺理由を一言で分類するよりも、

人は何に苦しむと、逃げ道が見えなくなるのか。

そこを考える方が、本質に近いのかもしれません。

僕たちができることは、誰かの人生を勝手に解釈することではない。

簡単な正論で励ますことでもない。

「そんなことで死ぬな」と言うことでもない。

ただ、逃げ道が見えなくなった人に対して、

こっちにも道があるかもしれない。

今すぐ決めなくてもいいかもしれない。

誰かに話してもいいかもしれない。

そうやって、ほんの少しだけ視界を広げること。

それくらいしかできないのかもしれません。

でも、その「それくらい」が、人によっては命綱になることもある。

もし今、逃げ道が見えないほど苦しい人がいるなら、ひとりで結論を出さないでほしい。

苦しみを言葉にするだけで、見える景色が少し変わることがあります。

人生そのものを終わらせなくても、終わらせられるものはあります。

仕事を辞める。

環境を変える。

距離を置く。

助けを求める。

逃げる。

休む。

一度、全部を投げ出す。

世間はそれを無責任だと言うかもしれない。

でも、命を失うくらいなら、無責任でいい。

迷惑をかけてもいい。

格好悪くてもいい。

人生には、逃げていい場面があります。

人が本当に失うのは、命の前に、逃げ道なのかもしれません。

だからこそ、必要なのは正論ではなく、余白なのだと思います。

onorenoo

おのれ

@onorenoo

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