息子に「パパ、120歳まで生きてね」と言われた話

沖縄旅行中、長男に突然こう言われました。

「パパ、120歳まで生きてね」

あまりにもまっすぐな言葉で、僕はすぐに「うん」とは答えられませんでした。

「120歳か。あと80年か。長いなあ」

そんなふうに返しました。

120歳という年齢は、人間の寿命の限界に近い数字です。

そこまで生きられる人は、ごくごくごくごく一握りでしょう。

自分がそこに到達できる気は、正直なところ、まったくしません。

ただ、これから医療がさらに進歩して、記憶や意識を別の器へ移せるようになったなら、人間は永遠に生き続けられるのだろうか。

そんな少しアホらしいことを妄想しました。

一方で、僕はときどき、この世界を魂の修行のために降り立った通過地点のように考えることがあります。

生きることは、楽しいことばかりではありません。

むしろ、苦しみや迷い、喪失を何度も経験しながら進んでいくものです。

そう考えると、あと80年生きるというのは、祝福というより、一つの大きな「業」にも思えてきます。

そんなことをあれこれ考えながら、ふと思いました。

仮にあと80年、この肉体に魂をとどめておけたとしても、息子の言う「パパ」でいられるのは、いったいあと何年なのだろう、と。

もちろん、父親であること自体は変わりません。

息子が何歳になっても、僕は父親です。

けれど、一緒に旅行をし、同じ景色を見て、子どもよりも先に歩き、疲れた子どもを抱き上げられる。

そんな「今のパパ」でいられる時間は、それほど長くないのかもしれません。

子どもと全力で遊べる時間。

子どもの歩幅に合わせて旅ができる時間。

父親の体力が、まだ子どもの体力を上回っている時間。

それは、長く見積もっても、あと10年もないのかもしれない。

そう思うと、少し寂しくなりました。

けれど、それは悲観ではなく、ただの事実です。

そして、限りがあるからこそ、今という時間には価値があります。

人はつい、将来のために今を使います。

老後のため。

子どもの将来のため。

仕事で成功するため。

いつか自由になるため。

もちろん、未来に備えることは大切です。

けれど、まだ来ていない未来のために、目の前にある時間を犠牲にしすぎてはいないでしょうか。

いつか家族で旅行しよう。

いつか子どもとゆっくり話そう。

いつか仕事が落ち着いたら遊ぼう。

そう思っているうちに、「今の子ども」はいなくなります。

未来にも子どもはいます。

けれど、今の表情、今の声、今の言葉遣い、今の甘え方をする子どもは、今しかいません。

人生には、不安がつきまといます。

今ここで休んだら、将来困るのではないか。

周囲と違う道を選んだら、失敗するのではないか。

もっと頑張らなければ、何かを失うのではないか。

それでも、僕は思います。

徳を積み、正しく生きていれば、どこかで拾う神が現れる。

ただし、ここでいう「正しく生きる」とは、大衆の価値観や世間の常識に従うことではありません。

みんなと同じ道を歩くことでもありません。

自分の魂の声に、正直に生きることです。

本当は何を大切にしたいのか。

誰と時間を過ごしたいのか。

何を失いたくないのか。

心の奥では分かっているのに、世間体や損得を理由に、聞こえないふりをしていないか。

息子の言葉は、そんなことを考えさせてくれました。

「パパ、120歳まで生きてね」

おそらく僕は、120歳までは生きられません。

そして、仮に生きられたとしても、今と同じ父親であり続けることはできません。

だからこそ、あと何年あるか分からない「今のパパ」としての時間を、大切にしたいと思います。

子どもと旅行ができる今。

手をつないで歩ける今。

抱き上げることができる今。

くだらない話をしながら、一緒に笑える今。

未来のために生きながらも、未来のためだけには生きない。

そんな生き方をしていきたいと思います。

肉体としての僕が何歳まで生きるのかは分かりません。

けれど、僕の魂は、もっともっと長く生き続ける。

息子に何かを残し、息子の中に何かが受け継がれていくのなら、それもまた一つの「生き続ける」ということなのかもしれません。

onorenoo

おのれ

@onorenoo

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