日銀短観を見ながら、ふと思ったことがあります。
大学病院から医師が流出している。
その理由としてよく言われるのは、
給与が安い。
忙しい。
当直が多い。
研究もしなければならない。
働き方改革で以前のように働けなくなった。
そんなところでしょうか。
もちろん、どれも間違っていないと思います。
でも最近は、
もう少し大きな流れがあるのではないかと思うようになりました。
それは、
日本の金融環境そのものが変わってきたこと。
です。
僕が医師になった頃、
日本はずっと低金利でした。
物価もほとんど上がらない。
住宅ローンの金利も低い。
企業がお金を借りる金利も低い。
給料が大きく増えなくても、
生活費そのものもあまり増えない。
そんな世界でした。
言ってしまえば、
給料が上がらなくても、なんとなく成立していた社会
だったのだと思います。
大学病院の給与が多少低くても、
将来教授になりたい。
研究がしたい。
専門医を取りたい。
難しい手術を学びたい。
そういう別の価値と交換できた。
給与だけを見れば割に合わなくても、
なんとか生活はできた。
だから成立していた。
ところが、その前提が変わりました。
物価が上がる。
住宅価格が上がる。
教育費も上がる。
食費も上がる。
社会保険料も重い。
そこへ金利まで上がってきた。
日銀の利上げによって、
住宅ローンだけでなく、
企業の借入金利も上昇しています。
日銀統計を見ると、
国内銀行の新規長期貸出の平均金利は、
2024年初には1%前後だったものが、
2026年7月には約1.9%まで上がっています。
もちろん、
クリニックの開業融資がそのままこの金利になるわけではありません。
それでも、
「お金を借りることがほとんどタダだった時代」は終わりつつある
と言っていいでしょう。
僕自身も変動金利で住宅ローンを組んでいます。
投資もしているので、
借入金利より運用利回りが高ければ、
ある程度イールドギャップを取ることはできます。
でも、
借金の額の方が圧倒的に大きい。
金利が上がれば、
当然、家計への圧力は強くなります。
これは医師だから関係ない話ではありません。
むしろ、
所得が高いぶん住宅ローンの金額も大きい医師には、
それなりに効いてきます。
そして、
ここから大学病院の話につながります。
大学病院で働くということは、
ある意味、
自分の労働力を市場価格より安く提供すること
でもあります。
その代わりに、
症例。
教育。
研究。
学位。
人脈。
専門性。
そういったものを受け取る。
若い頃であれば、
それでも十分に成立すると思います。
僕自身も、
大学や大きな病院でしか経験できなかったことはたくさんあります。
ただ、
30代、40代になり、
住宅ローンがあり、
子どもがいて、
教育費がかかり、
物価が上がり、
金利も上がってくる。
そうなると、
同じ給与でも意味が変わります。
名目給与が変わらなくても、実質的には給与が下がっている。
ということです。
そして医療業界には、
もう一つ大きな問題があります。
価格を自分で決められない。
ということです。
普通の会社なら、
人件費が10%上がった。
材料費が10%上がった。
家賃が上がった。
借入金利が上がった。
となれば、
商品価格を上げます。
もちろん競争はありますが、
少なくとも値上げするという選択肢があります。
しかし、
保険診療はそうはいきません。
診療報酬という公定価格で決まっています。
病院側が、
「今年は電気代も人件費も上がったので、手術代を10%上げます」
とはできません。
言ってみれば、
医療は極端にプライシングパワーの弱い産業
です。
実際、
病院経営はかなり厳しくなっています。
厚生労働省の資料でも、
2024年度の医療法人病院では、
医業赤字の病院が過半数になっています。
高度急性期や急性期病院でも利益率は低い。
これは、
病院が努力していないというより、
物価や人件費が上がる一方で、
売価を自由に上げられない構造の影響が大きいと思います。
そして病院に利益がなければ、
医師の給与だけを大きく上げることもできません。
僕は、
大学病院の医師の給与をもっと上げれば全部解決する、
とはあまり思っていません。
もちろん、
適正な待遇は必要です。
ただ、
構造的にそれほど簡単ではない。
原資がないからです。
するとどうなるか。
医師側が動きます。
市中病院へ行く。
非常勤を増やす。
自由診療をする。
開業する。
医療以外の収入源を持つ。
投資をする。
いろいろな選択肢が出てきます。
昔なら、
「医者なのだから医療だけやっていればいい」
でもよかったのかもしれません。
でも今は、
少し違う気がします。
医療だけを真面目にやって、
給与だけで資産形成まで完結させる。
もちろん可能です。
ただ、
もし、
少し良い家に住みたい。
旅行もしたい。
子どもの教育にもお金を使いたい。
老後の資産も作りたい。
そう考えるのであれば、
医師として働くだけではなく、お金のことも考える必要がある時代
になったのではないでしょうか。
これは別に、
医師が金儲けをしなければならない、
という意味ではありません。
むしろ逆で、
医療だけをやっていれば経済のことを考えなくてよかった時代が、
少し特殊だったのかもしれません。
では開業すればよいのか。
これも以前ほど単純ではありません。
開業にはお金がかかります。
土地。
建物。
内装。
医療機器。
人件費。
広告費。
そして、その多くを借り入れます。
金利が上がれば、
当然、開業コストも上がります。
さらに政策面でも、
医師偏在対策は強くなっています。
厚生労働省は、
外来医師が多い地域で新規開業する医師に対して、
事前に診療内容を届け出てもらい、
地域で不足している医療への協力を求める仕組みを進めています。
現時点で、
「都会では開業できない」
という単純な制度ではありません。
ただ、
国としては、
医師が都市部にさらに集中することを何とかしたい。
その方向性はかなり明確です。
つまり医師は、
不思議な状況に置かれています。
勤務医として働けば、
病院そのものに価格決定力がなく、
大幅な給与上昇は難しい。
大学病院では、
さらに教育や研究という役割もある。
一方、
それなら開業しようとしても、
借入金利は上がる。
建築費も上がる。
人件費も上がる。
そして地域によっては、
政策的な制約も強くなる。
どちらも簡単ではない。
そう考えると、
最近よく言われる
「若い医師が大学に残らない」
「外科医が減っている」
「自由診療に行く医師が増えた」
という現象も、
単なる若者の価値観の変化だけでは説明できないと思います。
もっと大きな、
経済合理性の変化
があります。
金利。
物価。
住宅価格。
教育費。
病院経営。
診療報酬。
医師偏在政策。
これらが全部つながっている。
大学病院から医師がいなくなることを、
「最近の医師は使命感がない」
で片付けるのは簡単です。
でも、
同じ人間が、
同じ仕事をして、
同じ給与をもらっていても、
社会の物価が3割上がれば、
その仕事の経済的価値は変わります。
住宅ローン金利が上がれば、
さらに変わります。
昔と同じ条件を提示して、
昔と同じように働いてほしい、
というのは、
徐々に難しくなっているのでしょう。
僕自身は、
だから医師の給与をもっともっと上げるべきだ、
とは思っていません。
国民皆保険の中で、
医療費には当然限界があります。
高齢化も進んでいる。
社会保障費も増えている。
すべての医療従事者の給与を、
インフレ率以上に延々と上げることは、
現実的ではありません。
だからこそ、
医師側も変わっていくのだと思います。
勤務先を一つに依存しない。
専門性を持つ。
投資をする。
医療以外の知識を持つ。
場合によっては、
複数の仕事を持つ。
昔のような、
「一つの大学、一つの医局、一つの病院にずっと所属する」
というモデルそのものが、
経済環境と合わなくなっているのかもしれません。
そして、
これはおそらく医師だけの話ではありません。
日本全体が、
低金利・低物価の30年間に最適化されてきました。
企業も。
家計も。
病院も。
大学も。
そして医師の働き方も。
今、
その前提が変わり始めています。
物価が上がり、
金利が上がる。
すると、
これまで見えなかった矛盾が、
いろいろな場所で表に出てくる。
大学病院から医師が流出していることも、
その一つなのかもしれません。
医師が変わったのではなく、
医師を取り巻く経済の方が変わった。
そんなふうに見ると、
最近起きているいろいろなことが、
少しつながって見える気がします。
そして、もう一つ思うことがあります。
金融や経済というのは、
医師にとって、かなり縁の遠い世界でした。
少なくとも僕が医師になった頃、
金利がどうだとか、
インフレ率がどうだとか、
中央銀行がどうだとか、
そんな話を知らなくても、
医師として普通に働いていれば生活は成立しました。
医師という職業そのものに、
ある程度の経済的な強さがあったからです。
だから、
経済のことを勉強しなくても困らなかった。
でも、
その時代が少しずつ終わっているように思います。
物価が上がる。
住宅価格が上がる。
金利が上がる。
そこで初めて、
自分の給与を「額面」ではなく、
実質的な価値として考えるようになる。
さらに経済や投資を勉強すると、
もう一つ見えてきます。
それは、
自分の時間にも価格がある
ということです。
大学病院に残ることで得られるものはたくさんあります。
一方で、
市中病院で働いた場合との差額。
非常勤で働いた場合の収入。
そのお金を投資した場合の将来価値。
そういったものも、
すべて機会費用です。
そこまで見えるようになると、
給与の低い場所に残り続けるという選択には、
それなりの理由が必要になります。
これは、
最近の医師がお金に汚くなった、
という話ではありません。
むしろ、
経済合理性を理解するようになった。
という話なのだと思います。
そして少し皮肉なのですが、
経済のことを何も考えず、
一つの病院に所属して、
朝から晩まで医療だけを考えて生きる。
そんな医師人生の方が、
これからはある意味、
とても贅沢な生き方になっていくのかもしれません。
