アルゼンチンのサッカーは「汚い」のか

アルゼンチンのサッカーは汚い。

そう言う人は多いです。

たしかに、クリーンではありません。

激しいファールもある。
挑発もある。
相手を苛立たせるような振る舞いもある。

ただ、僕は、あれはあれでサッカーの一面だと思っています。

もちろん、何をしてもよいという話ではありません。

パレデスの試合後の暴力は、もってのほかです。
試合が終わった後に手を出すことまで、サッカーの駆け引きとして擁護するつもりはありません。

一方で、途中出場した直後にイエローカードをもらうようなファールをすることや、相手の勢いを止めるために嫌われ役を引き受けることについては、驚きません。

あのような「ど畜生」は、サッカーをやっていれば必ず出会います。

僕は小学校1年生から大学6年生まで、18年間サッカーをしてきました。

その間、それなりの数の「ど畜生」に遭遇してきました。

特に中学生くらいは、なかなかやばいです。

とある日本代表選手の弟と対戦したことがありますが、ピッチの外に出たボールを、僕の顔面めがけて思い切り投げて渡してきました。

理解不能というか、畜生すぎます。

おそらく周囲も、もう強く注意できなかったのでしょう。

実力があり、兄も有名で、本人もチームの中で大きな力を持ってしまった。学校の顧問でさえ、簡単には注意できないような存在になっていたのかもしれません。

もちろん、その選手はプロになるどころか、高校生でカツアゲをして退学になっていました。

才能があることと、人間として成熟していることは別です。

サッカーがうまいからといって、人格まで優れているわけではない。

むしろ、幼い頃から周囲に持ち上げられ、誰にも注意されなくなることで、人間としておかしな方向へ進んでしまうこともあります。

ちょっとうまい選手なら、ごまんといる

サッカーというスポーツには、本当にいろいろなことを教えてもらいました。

まず、ちょっとうまい選手なら、ごまんといます。

小学生のときに地域で一番うまかった。

中学生で県選抜に入った。

地方では少し名前が知られていた。

しかし、そのくらいでは何にもなりません。

県で飛び抜けていても、次のレベルに進めば、同じような選手がいくらでもいます。

足が速い選手もいる。
身体が強い選手もいる。
自分より技術のある選手もいる。
さらに、その全てを持っている選手までいる。

どれだけ自信があった選手でも、皆がどこかで必ず挫折を経験します。

小学校で挫折する人もいる。
中学校で試合に出られなくなる人もいる。
高校で全国との差を知る人もいる。
大学まで続けて、プロとの距離を思い知らされる人もいる。

どこまで進んだとしても、ほとんどの人は、自分が特別ではないと知る瞬間を迎えます。

問題は、その挫折をどう乗り越えるかです。

努力を続ける人もいる。

自分の役割を見つける人もいる。

サッカー以外の道に進み、新しい場所で力を発揮する人もいる。

一方で、過去の実績にしがみつく人もいる。

他人を威圧することで自分を守ろうとする人もいる。

自分より弱い相手を傷つけることで、失われた自信を保とうとする人もいる。

僕は、そのような多くのケースを、この目で見て、この耳で聞いてきました。

サッカーは、成功者の物語だけを見せてくれるスポーツではありません。

才能が通用しなくなる瞬間も、増長して壊れていく人間も、挫折から立ち直る人間も、すべて見せてくれます。

南米では、本当に人生がかかっている

南米には、命をかけてプロになったサッカー選手もいます。

日本にも、人生をかけてサッカーをしてきた選手は当然います。

ただ、南米では、サッカーによって家族の生活が変わる、貧困から抜け出せる、自分だけではなく周囲の人生まで背負うという選手が、比較的多いのではないでしょうか。

もちろん、だから反則や暴力が許されるわけではありません。

しかし、彼らにとっての一試合、一つの勝敗、一つのポジションが、僕たちの想像以上に重い可能性はあります。

きれいに負けるくらいなら、嫌われても勝つ。

相手の流れを切る。

必要なら身体をぶつける。

自分がカードをもらってでも、チームを守る。

そうした価値観が生まれる背景は、理解できなくもありません。

それを「汚い」の一言で片づけるのは簡単です。

しかし、その選手がどのような場所から来て、何を背負い、どのような競争を勝ち抜いてきたのかまで考えると、少し違う見え方もしてきます。

スペインの選手たちは理解していた

だから、パレデスのような選手がいても、僕は驚きません。

実際に、ピッチ上のスペインの選手たちも、それを理解した上でプレーしていましたよね。

相手が何をしてくるか。

どこでファールをしてくるか。

どうやって感情を揺さぶってくるか。

どこまでなら審判が許すか。

その全てをある程度理解し、警戒しながらプレーしていたように見えました。

そういうことです。

トップレベルの選手たちは、相手が全員クリーンにプレーしてくれるとは考えていません。

危険なファールもある。
挑発もある。
時間稼ぎもある。
感情のぶつかり合いもある。

それを前提として、自分をコントロールし、試合を進めています。

つまり、あのような選手の存在も含めて、サッカーの現実なのです。

サッカーは、人間そのものを見せる

サッカーは、美しいスポーツです。

一本のパスで状況が変わる。

味方のために走る。

身体を投げ出してゴールを守る。

自分が目立たなくても、チームのために役割を果たす。

そうした美しさがあります。

しかし同時に、サッカーは人間の汚い部分も見せます。

嫉妬。

傲慢。

暴力性。

ずる賢さ。

弱い者への攻撃。

審判に見えない場所での駆け引き。

勝つために手段を選ばない執念。

きれいな部分だけがサッカーではありません。

汚い部分も含めて、人間そのものがピッチに出ます。

だからこそ、サッカーは面白いのだと思います。

人格者だけが活躍するわけではない。

最も技術がある選手が必ず勝つわけでもない。

努力した人が必ず報われるわけでもない。

それでも人は、走り、競い、失敗し、また立ち上がる。

サッカーをしていると、その後の人生で出会う多くのことを、少し早く経験します。

理不尽な相手。

自分を評価してくれない指導者。

才能の差。

努力では埋められない壁。

仲間との信頼。

挫折。

そして、自分が何者でもないと気づいた後に、どう生きるか。

僕は、サッカーから本当に多くのことを教えてもらいました。

それもまた、サッカーの一部である

パレデスのプレーが好きかと聞かれれば、好き嫌いはあるでしょう。

悪質なファールは処分されるべきです。

暴力は許されません。

しかし、「あんなものはサッカーではない」と完全に切り離すことにも、違和感があります。

あのような選手は、昔からサッカーの中にいます。

少年サッカーにもいる。

中学にもいる。

高校にもいる。

大学にもいる。

そして、世界最高峰の舞台にもいる。

美しいパスもサッカーです。

献身的な守備もサッカーです。

卑劣な駆け引きも、感情の爆発も、残念ながらサッカーの中に存在します。

好き嫌いはあれど、そういうものなのです。

それもまた、サッカーの一部なのだと思います。

Oyaji Diary

onorenoo

おのれ

@onorenoo

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