RADWIMPSの「シャバダバ」という曲の歌詞が、巷で話題になっています。
僕も、この曲で表現されているような感覚には、概ね共感できるところがあります。
ただ、それと同時に、こうした影響力のあるアーティストが、身を挺してこのような曲を世に送り出すことに、少しばかり身を案じてしまう自分もいます。
ジョン・レノン然り、マイケル・ジャクソン然り。
彼らの人生や、その最期をめぐっては、今なおさまざまな憶測が語られています。
もちろん、何が真実なのか、僕にはわかりません。
ただ、世界に大きな影響力を持つ人が、社会や権力に対して声を上げるということ。
その意味を考えると、どうしても少し不安になってしまうのです。
陰謀と陰謀論。その境界にあるもの
世の中には、さまざまな陰謀があり、陰謀論があります。
その中で何が真実で、何が作り話なのか。
正直なところ、僕にはわかりません。
ただ、人間が生きている以上、己の利益を優先するという選択は、どうしたって避けて通れないものだと思っています。
それは個人であっても、企業であっても、国家であっても同じでしょう。
誰かの利益が、別の誰かの不利益になる。
ある人にとっての正義が、別の人にとっての不正義になる。
そして、時には誰かの利益を守るために、別の誰かが不幸になる。
そんなことは、きっと昔から繰り返されてきたのでしょう。
だから、陰謀によって誰かが不幸になるということも、残念ながら起こり得ることなのだと思います。
それを「仕方のないこと」と言ってしまうのは、あまりに冷たいのかもしれません。
でも、人間という生き物の性質を考えれば、そうした構造そのものを完全になくすことは難しいのではないでしょうか。
「それも神の所業だ」という母の言葉
以前、母とこんな話をしたことがあります。
コロナワクチンをめぐって、さまざまな陰謀論が飛び交っていた頃のことです。
僕は母に尋ねました。
「もし、コロナワクチンの陰謀論が本当だったとしたら?」
すると母は、こう答えました。
「そうだとしても、それも神の所業だ」
その言葉が、妙に印象に残っています。
つまり、人類がどのような選択をしようとも、それは人類自身が選んだことであり、結果として人類が引き受けるべき責任なのだと。
それが、いわゆるカルマというものなのかもしれません。
もちろん、母がどこまでそのような意味を込めて言ったのかはわかりません。
ただ、僕はそう受け取りました。
そして、まあ、そうなのかもしれないなと思ったのです。
人類が欲望に従って行動することも、誰かを欺くことも、それに抗おうとすることも。
結局のところ、それらすべてが人間という存在の営みなのでしょう。
そう考えると、陰謀なのか、陰謀論なのか。
僕個人が生きていく上では、もはやどちらでもいいのかもしれない。
もちろん、真実を追究することには大きな意味があります。
不正があるのならば、明らかにされるべきでしょう。
ただ、すべての真実を知ることなど、僕には到底できません。
そして、知らないこと、わからないことに心を奪われ続けても、自分の人生は前に進まない。
それならば。
自分は自分の信じるものを信じ、行動する。
それを他人に押し付けない。
自分が危険だと感じるものからは、できるだけ距離を置いて生活する。
他人の選択を必要以上に批判することも、他人に自分の正しさを証明し続けることも、しなくていい。
自分で考え、自分で選び、その結果を自分で引き受ける。
それこそが、この世を生きていく上での、具体性を持った生き方なのかもしれないと思っています。
ルールも審判も、すでに相手の味方だったら
もちろん、綺麗事を言うことも、反対の声を上げることも、ものすごく大切なことです。
正しいと思うことを主張する。
おかしいと思うことに「おかしい」と声を上げる。
それができる社会であるべきだと思います。
でも、もしも。
ルールを作る人も、審判をする人も、すでに相手の味方だったとしたら。
そんな勝負に、果たしてどれほどの意味があるのでしょうか。
一生懸命に努力しても、正論を唱えても、そもそも勝負の仕組みそのものが公平ではなかったとしたら。
勝つことなんて、最初から許されていないのかもしれません。
そして、そうした仕組みに気づいた人の中には、声を上げることをやめた人もいるのでしょう。
あるいは、自ら舞台を降りた人もいるのかもしれません。
中には、本人の意思とは関係なく、表舞台から姿を消していった人もいたのではないか。
そんなことさえ考えてしまいます。
もちろん、これも僕の想像に過ぎません。
ただ、今の日本や世界を眺めていると、必ずしも正しさだけで物事が動いているわけではないのだろうと感じることがあります。
だからこそ、僕自身は、必ずしもその勝負に参加しなくてもいいと思っています。
世界のすべてを変えようとする必要もなければ、すべての不条理と戦う必要もない。
自分が大切にしたいものを大切にして、自分の信じる生き方をする。
それだけでも、十分に意味のある人生なのではないでしょうか。
それでも、声を上げてくれる人がいる
とはいえ、だからといって、声を上げることに意味がないとは思いません。
むしろ、僕自身がそうした考え方に至ったからこそ、今回のRADWIMPSのように、世界の仕組みに疑問を持ち、それを自分の言葉で表現してくれる人の存在を、とても尊く感じます。
影響力のある人が声を上げるということは、それだけ多くの人に届くということです。
一方で、それだけ多くの反発を受ける可能性もあるのでしょう。
黙っていた方が、きっと楽なこともある。
何も言わずに、自分の仕事だけをしていた方が、安全なのかもしれません。
それでも、自分が感じた違和感を、自分の言葉で世の中に投げかける。
その姿勢には、敬意を抱かずにはいられません。
僕自身、何が正しいのか、何が真実なのか、すべてを知っているわけではありません。
むしろ、知らないことの方が圧倒的に多いのでしょう。
だからこそ、誰かの主張を無条件に信じるのではなく、自分の頭で考え続けたい。
そして、自分では言葉にできなかった違和感を、こうして表現してくれる人がいることに感謝したいと思います。
僕は僕の信じる生き方をする。
誰かは誰かの信じる生き方をする。
そして、声を上げることを選んだ人がいるのなら、その勇気と覚悟に敬意を払いたい。
世の中の仕組みがどうであれ、その声によって、これまで疑問すら持たなかった誰かが、立ち止まって考えるようになるかもしれません。
それだけでも、きっと大きな意味があるのだと思います。
今回、このような曲を世に送り出してくれたことに、感謝しています。
どうかご無事で。
