「たったひとつのたからもの」を見て——長く生きることと、よく生きること

先日、Yahoo!ニュースである記事が目に留まりました。

明治生命、現在の明治安田が2001年に放映したCM「たったひとつのたからもの」。

ダウン症をもって生まれ、6歳で生涯を終えた秋雪くんと、その両親の物語です。

このCMは、秋雪くんの母親が撮り続けた写真で構成されています。

その中でも、父親が幼い秋雪くんを強く抱きしめている一枚の写真が印象に残りました。

言葉はありません。

けれど、その写真だけで、

今ここに生きていることへの感謝と、
いつか必ず失われる時間の儚さを伝えるには十分すぎるほどでした。

明治安田によれば、この作品は第1回「しあわせな瞬間」フォトコンテストの銀賞作品をもとに制作された90秒のCMで、その後国内外の広告賞にも入賞しています。

多くの人は、この写真を見て思うでしょう。

自分は恵まれている。

自分の子どもたちは今日も元気に生きている。

当たり前だと思っていた毎日は、決して当たり前ではない。

だから今ある幸せに感謝しよう。

僕自身もそう思いました。

家に帰ったら、子どもたちを抱きしめてあげたい。

ただ、この話をそれだけで終わらせてよいのだろうか、とも思います。

感動は、その日だけで終わってしまう

こういう話を読むと、人は一瞬立ち止まります。

家族を大切にしよう。

健康に感謝しよう。

今日を大切に生きよう。

けれど翌朝になれば、また仕事に追われます。

子どもが言うことを聞かなければ腹も立つ。

妻や夫に苛立つこともある。

仕事の些細な失敗を引きずり、持っていないものばかりを数え始める。

それが人間なのだと思います。

だから問題は、

「感動できるか」

ではありません。

そのとき感じたものを、どれだけ自分の人生に持続的に反映できるか。

そこにあるのではないでしょうか。

この写真を見た瞬間だけ。

あるいは、その日一日だけ。

今あるものに感謝できても、人生そのものが変わらなければ、結局また元に戻ってしまいます。

人生は美しく、同時に儚い。

そして我々は、ある地点から必ず老いていきます。

病気になることもある。

家族との別れもある。

自分自身もいつか死ぬ。

不確実な将来に備えることは必要です。

貯金も、保険も、健康管理も大切でしょう。

でも将来ばかりを心配して、今日を犠牲にしてしまっては、本末転倒でもあります。

不確実な未来に備えながら、

確実に存在している「今」をどこまで大切にできるか。

これは簡単なようで、非常に難しい人生の課題なのだと思います。

あなたはどうでしょう。

今を大切に生きていますか。

身の回りに、すでに存在している宝物に気づいていますか。

毎日を後悔なく生きていますか。

6年間の人生は、不幸だったのだろうか

もう一つ考えたことがあります。

6歳で生涯を終えた秋雪くんは、不幸だったのでしょうか。

こう書くと、少し冷たい問いに聞こえるかもしれません。

でも僕は、人生を考えるうえで、とても重要な問いだと思っています。

長く生きたから幸せ。

短く生きたから不幸。

そんな単純なものではないでしょう。

90年生きても孤独な人生はあります。

短い生涯でも、多くの人に愛され、誰かの人生を変え、何十年後の人間にまで何かを残す人生もあります。

秋雪くんは6歳で亡くなりました。

それでも、20年以上たった今、その写真を見た僕がこうして人生について考えている。

それだけでも、彼がこの世界に残したものは決して小さくありません。

明治安田が後に制作した「懸命」篇では、秋雪くんが成長していく姿を通じて、「ただ精一杯生きる」ことの大切さが描かれています。

人生の価値は、長さだけでは測れない。

そんな当たり前のことを、改めて突きつけられます。

生き続けることだけが、唯一の正解なのか

そしてこの話を考えていると、さらに難しい問題にも行き着きます。

人は年を取ります。

病気にもなります。

自分で動けなくなるかもしれません。

認知機能を失うかもしれません。

家族の看護や介護が必要になることもあります。

これは決して特殊な話ではありません。

家族を持つ多くの人が、一度は考え、かなりの確率で実際に直面する問題です。

医療は長い間、「どうすれば命を延ばせるか」を進歩させてきました。

それ自体は素晴らしいことです。

一方で、医療が進歩したからこそ、

「どこまで治療するのか」

「延命することが本人の望む人生なのか」

という新しい問いも生まれました。

日本では積極的安楽死を認める制度はありません。

一方で、人生の最終段階における医療については、本人の意思を尊重しながら、治療を始めないこと、変更すること、中止することも含めて、医療・ケアチームで話し合うという考え方が示されています。

いわゆるACP、人生会議です。

ここは安楽死とは分けて考えなければなりません。

しかし根底にある問いは共通しています。

「ただ長く生きること」と、

「その人らしく生きること」は、

いつも同じなのだろうか。

簡単な答えはありません。

本人の意思。

家族の思い。

医療者の責任。

介護する人の負担。

社会保障。

そして、弱い立場の人に「生き続けることを申し訳なく思わせない社会」であること。

すべてを考えなければならないからです。

だからこそ、安楽死や尊厳死という言葉だけで簡単に賛成、反対を決めることはできないのだと思います。

たったひとつのたからもの

ここまで随分難しいことを書きました。

でも、この写真が最初に僕に伝えてきたものは、もっと単純でした。

父親が息子を抱きしめる。

息子がそこにいる。

ただ、それだけです。

人生が何年あるのか。

これから何が起こるのか。

そんなことは誰にも分かりません。

僕自身、明日も今日と同じように家に帰り、家族と食卓を囲めると思って生活しています。

おそらく明日もそうでしょう。

でも、それは約束されたものではありません。

だからといって、毎日死を意識して悲壮感をもって生きる必要もない。

ただ時々、

自分がすでに持っているものを確認する。

子どもの声。

家族との食事。

健康な身体。

仕事。

友人。

何でもない休日。

そういうものを、失ってから宝物だったと気づくのではなく、

持っているうちに宝物だと気づけたらいい。

「たったひとつのたからもの」という題名を見ながら、

宝物は、どこか遠くに探しに行くものではないのかもしれないと思いました。

多くの場合、

もう目の前にある。

今、生きていることに感謝しよう。

そして、

今、一緒にいてくれる人を大切にしよう。

それくらいなら、今日からできそうです。

onorenoo

おのれ

@onorenoo

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