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「足るを知る」の限界と可能性|空海とブッダに学ぶ〈後編〉〜欲望、資本主義、そして他者との関係〜

生き方とマインドセット

「足るを知る」の限界と可能性

空海とブッダに学ぶ〈後編〉

〜 欲望、資本主義、そして他者との関係 〜

前編では、「足るを知る」の起源と精神的意義について触れました。
今回はそれを踏まえ、現代社会における「足るを知る」の難しさと可能性について掘り下げていきます。

>> 前編のリンクです

「足るを知る」の本質とは何か 空海とブッダに学ぶ〈前編〉〜その言葉が生まれた背景と本当の意味〜
「足るを知る」とは、妥協でも諦めでもない。空海やブッダの言葉をたどり、その背景と本質を現代の視点から深く読み解きます(前編)。

■ 現代社会は「足るを知らない」構造でできている

私たちが暮らす資本主義社会は、常に「足りない」と思わせることで、モノやサービスを生み続けています。
SNSでは他者の成功が視覚的に流れ、日常の延長線に「もっと」「上を」と思わされる構造があります。

「足るを知る」という言葉は、こうした社会構造と本質的に対立する概念ともいえます。


■ 無欲と無関心は違う

「足るを知る」とは、欲望を捨てることではありません。
問題なのは、「自分の価値」を他人との比較や社会の価値基準で測ってしまうことです。

ブッダも空海も、「自分の心のうちに光を見出すこと」を説いています。
それは、他人と比べるのではなく、「今の自分と丁寧に向き合う」ことです。


■ 欲望にも質がある

たとえば、「人の役に立ちたい」「家族を守りたい」「より良いものを生み出したい」という欲望は、利他的で、創造的です。
このような欲望が生む行動は、私は「足るを知らない悪」とは言えないと思っています。

本質は、“どこから湧いてきた欲なのか?”という動機にあります。


■ 「足るを知る」ことで失われるものもある?

懸念すべきは、「足るを知る」が向上心や挑戦心を押さえつける道具として使われてしまうことです。
現状維持を美徳とし、変化や努力を“欲張り”とする風潮があるとすれば、それは本来の「足るを知る」から逸れています。


■ まとめ(後編)

「足るを知る」は、物質的な所有ではなく、心の在り方の問題。
現代社会においてこの言葉をどう生かすかは、他人ではなく、自分の本質的な欲望と向き合えるかどうかにかかっています。

空海やブッダが残した教えを通して、「満ち足りた生き方」とは何かを、これからも探求していきたいと思います。

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