とある関西の地方都市にやってきました。
ホテルに着くと、そこは中国人だらけ。
スタッフも外国人だらけ。
ここは20年くらい前にきた時は外国人なんてほとんど見ることはなかった。
しかし、今や、あたり一面が異国の音で満ちていた。
あとで調べてみると、中国ではこの時期、日本で言うゴールデンウィークのような大型連休らしい。
なるほど、それでか──と納得しながらも、
心のどこかで「それにしてもこんなにも?」という感情が拭えない。
少し前まで住んでいた京都を思い出した。
あの町にも、いまや外国語が溢れている。
私がいた十数年前は、秋の3連休はすごく混むが、
それ以外はそこまでの「オーバーツーリズム」を感じることはなかった。
それが今では「日本人が京都を避けている」という記事まで出ている。
インバウンド価格で宿泊費も高騰しているとか。
なんだかなぁ、と思う。
京都は、日本人の“心のふるさと”のような場所だと勝手に思っていた。
けれど、気づけばそこは“誰かの特別な観光地”になっていたようだ。
誰のための町なのか、わからなくなる。
日本人が気づいてきた伝統に興味を持ってもらう
触れてもらうこと
それに関しては歓迎するが
郷にいれば郷に従う
そんな行動のできない旅行客が増えているという
中国では反日教育が行われていると聞いた。
にもかかわらず、これほど多くの人が日本に旅行に来て、楽しげに過ごしている。
そのギャップが、なんだか理解しきれない。
もちろん、国家の方針と個人の感情は一致しないものだろう。
私たちだって、全員が政府の考えに賛同しているわけではない。
ただ、それでも、「なぜわざわざ日本に?」という問いが消えないのは、
どこかで自分の中に“日本という国は、特別な存在だ”という感覚があるからかもしれない。
旅をすること、異国を訪れること、それ自体は悪いことではない。
むしろ自由であるべきだ。
ただ、その裏で変わっていく風景や空気に、どこか寂しさを覚えてしまうのだ。
こんなふうに思う自分が、もしかしたら時代に取り残されているだけなのかもしれない。
でも、それでもいいかなとも思う。
失われつつある何かに、そっと手を添えるような気持ちで、今日も歩いている。
なんだかなぁ、とつぶやきながら。
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