――精神科医になりたかった外科医が考える「心を救う医療」
高校生の頃の僕は、将来は精神科医になろうとぼんやり考えていました。
その頃の僕にとって、世界の中心は「心の動き」だったからです。
心さえ救われれば、この世はずっと生きやすくなる。
そう信じていましたし、その考え自体は今もあまり変わっていません。
ただ、ひとつ変わったと思うのは、
「心は、精神科でなければ救えないわけではない」
と感じるようになったことです。
精神科でなくても、心は救える
医師になってから、いろいろな診療科の先生方と関わる中で感じるのは、
- どの診療科にも、その診療科なりの「心への関わり方」がある
- それぞれの医師が、それぞれの患者さんの「心の居場所」に触れている
ということです。
精神科はもちろん、心の専門家として大切な役割を持っています。
一方で、内科でも、外科でも、小児科でも、皮膚科でも、
**「その人の心に少しだけ手を伸ばす瞬間」**は、必ずあります。
- 不安そうな表情に、ひと言そえる説明
- 手術の同意書にサインをするときの沈黙
- 検査結果を伝える前の、あの一呼吸
そこには、診療科の枠を超えた「心の医療」が確かに存在しているように思います。
メスを持つ外科医としてのロジカルな快感
結局、僕は今、「メスを持つ外科医」という道を選びました。
せっかく医師になったのだから、
解剖学的な専門知識を活かして手術をしたい。
そう思ったのも、正直なところです。
外科の手術は非常にロジカルです。
- 解剖学を頭に叩き込み
- 術式を組み立て
- 手順通りに進め
- 予定通りに終わらせる
そのプロセスは、理系脳をこれでもかというほど刺激してくれます。
「ここをこう切れば、こう治る」という世界は、ある意味とても明快です。
「言葉のメス」を持つ医師たち
一方で、精神科の先生方を見ていると、
僕ら外科医とはまったく違う“メス”を持っているようにも感じます。
それは、**「言葉のメス」**です。
精神科医としての専門性や権威性を背負って発せられる言葉には、
僕ら以上に強い力が宿ります。
- あなたの症状には、こういう意味があります
- あなたの感じているしんどさは、決して甘えではありません
- 一緒にやっていきましょう
このような言葉は、ときに人の人生の方向を変えます。
良い方向にも、悪い方向にも。
精神科の先生が発する言葉は、
見えないけれど確かに「心の組織を切り、縫い合わせる」ようなものなのかもしれない――
今ではそんなふうに考えるようになりました。
すべての医師が、それぞれの「言葉のメス」を持っている
もちろん、「言葉のメス」を持っているのは精神科医だけではありません。
- がん告知をする消化器外科医
- 生活習慣病を何度も説明する内科医
- 子どもの病気を伝える小児科医
- 皮膚の症状と一緒に、患者さんのコンプレックスに向き合う皮膚科医
どの診療科でも、患者さんにかけるひと言や、
その場で選ぶ言葉の温度によって、
患者さんの「これから」が少し変わっていきます。
僕自身、メスを握って手術をしているときは「身体」に向き合っていますが、
外来や病棟で患者さんと話しているときは、
自分もまた、小さな“言葉のメス”を握っているのだと意識するようになりました。
- どこまで踏み込んで伝えるか
- どこでいったん言葉を飲み込むか
- どのタイミングで希望を示すか
その選択ひとつひとつが、
患者さんの心のどこかに、見えない切れ目や縫い目を残していくのだと思います。
心の中心は、今も変わらない
高校生の頃、世界の中心は「心」でした。
医師になった今も、その感覚は不思議と変わっていません。
ただひとつ違うのは、
精神科でなければ心を救えないわけではない
どの診療科の医師も、それぞれの現場で心に触れている
と実感できるようになったことです。
メスを持つ外科医として、身体を治すこと。
同時に、小さな「言葉のメス」ーー実態のない握らないメスーーを意識しながら、
目の前の人の心にも、少しだけ良い方向の切れ目を入れてあげられたら――
そんなことを思いながら、
今日も手術室と外来と、そして時々ブログの画面と向き合っています。


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