国民的アニメ『ちびまる子ちゃん』。
その主題歌として長く愛されてきたのが、『おどるポンポコリン』です。
覚えやすいメロディ。
つい口ずさみたくなるフレーズ。
「ピーヒャラ、ピーヒャラ」と聞くだけで、子どもの頃の空気まで思い出す人も多いかもしれません。

そんな親しみある歌を、先日たまたま聴いていて、ひとつ引っかかった歌詞がありました。
「エジソンは偉い人、そんなの常識」
この一文に、妙に心が止まりました。

最近の僕にとって大事な教訓があります。
それは、
テレビやメディアから流れてくる“常識”を、そのまま飲み込まないこと。
ということです。
エジソンは偉い人。
たしかに多くの人がそう習ってきたと思います。
発明王。電球。偉人。
そういうイメージを持っている人は多いでしょう。

もちろん、エジソンが歴史に名を残す発明家であったこと自体は間違いありません。多数の特許を持ち、電気・音響・通信の分野で大きな足跡を残しました。
ただ、それで話が終わるほど単純でもありません。
エジソンは、単なる「ひらめきの天才」ではなく、
技術を社会に広め、事業として成立させることに長けた人物でもありました。
研究だけでなく、仕組みづくり、普及、商業化までを見据えて動ける人だった。
だからこそ成功したとも言えます。
つまり、
「エジソン=偉い発明家」という教科書的な一枚絵だけでは、彼の本質は見えにくいのです。

一方で、同時代にはニコラ・テスラという、まったく別の方向の天才がいました。
交流電力システム、回転磁界、テスラコイル。
現代社会の土台に深く関わる発想と技術を残した人物です。
テスラは壮大な構想を持ち、人類全体の未来を見ていたような人物でした。
ただ、その構想は大きすぎて、現実の資金や事業の論理とは噛み合わなかった。
実際、彼のウォーデンクリフ計画は資金提供者J.P.モルガンの支援打ち切りもあり、頓挫しています。

これはテスラの発明がモルガン自体の石油関連の利権を壊すものだったという見方もあります。
その後のテスラはその才能を活かす場所を与えてもらうことなく、恵まれない晩年を過ごしたとも言われています。
振り返るとエジソンとテスラのそれぞれの人生への光の当たり方はとても対照的です。

ここで見えてくるのは、
「誰が本当に優れていたか」を単純に決める話ではありません。
そうではなく、
社会の中で評価される人間像は、純粋な能力だけで決まるわけではない
ということです。
技術そのもの。
それを広める力。
市場に乗せる力。
時代との相性。
資本との距離。
そういったものが複雑に絡み合って、
「偉人」がつくられていきます。
だからこそ、
“そんなの常識”という言葉ほど危ういものはない
と僕は思います。

常識は、真実そのものではありません。
多くの場合、それは
- 教えやすい形に整えられたもの
- 多数派が受け入れやすい物語
- 誰かにとって都合のよい説明
だったりします。
科学の世界ですらそうです。
昨日まで当然だったことが、今日には書き換えられる。
評価されなかったものが、何十年後に再評価される。
歴史とは、そういうことの繰り返しです。

ましてや、善悪、倫理、道徳、成功、不成功のような、
もっと曖昧で人間的なテーマならなおさらです。
「偉い人」とは何か。
「正しい」とは何か。
「普通」とは何か。
こうしたものは、思っている以上に不安定です。
医療の世界にいても、それは感じます。
何が標準治療か。
何が常識か。
何が患者さんのためか。
そこには科学だけではなく、制度、経済、利権、慣習、人間の感情まで入り込んできます。

だから、疑うことはひねくれではありません。
むしろ、誠実さだと思います。
言われたことをそのまま信じる。
みんながそう言っているから従う。
それは安心ではありますが、思考停止にもつながります。
常識を疑う。
誰かの物語を、一度自分の頭でほどいてみる。
その上で、自分なりに納得して選ぶ。
現代のように、情報が溢れ、
もっともらしい言葉が毎日大量に流れてくる時代だからこそ、
この姿勢はますます大事になっている気がします。

エジソンが偉いかどうか。
正直、その結論自体はそこまで重要ではありません。
大事なのは、
「そんなの常識」と言われた瞬間に、一度立ち止まれるかどうか。
その力こそが、
無数に仕掛けられた現代の罠の中で、
自分の頭で生きるための土台になるのだと思います。
常識を疑え。
それは反抗のためではなく、
より賢く、より自由に生きるための姿勢です。


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