僕の父は医者です。
祖父も医者で、この家系は江戸時代の漢方医にまで遡ります。
とはいえ、父から「医者になれ」と言われたことは一度もありません。
何かを強制された記憶もありません。
周囲の開業医の子どもたちが都会の進学校へ進むなか、
僕と弟は田舎の公立進学校に通い、塾にも行かず、のうのうと育ちました。
それでも僕も弟も、最終的には国公立の医学部に進学しました。
高校生の頃、特に高3の夏に部活を引退してからは、1日10時間ほど必死に勉強しました。
医学部に進むこと。
それは高校生にとって、受験戦争の頂点を取りに行くような感覚があります。
ある意味ではゲームにも似ています。
親に何も言われなくてもこの道を選ぶだけのモチベーションが自分の中に生まれたのは、
意地やプライド、そして先祖代々続いてきた何かしらの宿命のようなものを、どこかで感じていたからかもしれません。
世間でよく言われる「子供も医者にするか問題」について、僕はこう思います。
それは親のエゴでもある。
でも同時に、親心でもある。
かなり偏った言い方をすれば、医師免許を持っていれば生活にそうそう困ることはありません。
自分がいなくなったあとも、我が子には食べることに困らず生きていてほしい。
そう願う親が、医師という職業を勧めるのは、ある意味で自然なことです。
僕自身も少し前までは、
息子たちには息子たちの人生を歩んでほしいと思いながらも、
医師という仕事は「食いっぱぐれのない職業」として魅力的で、親として安心できる職業だと思っていました。
言い方は悪いですが、そこそこの収入があり、安定も見込める。
ある種、「収入の高い公務員」のような安心感があるのです。
もし本当に親がそこだけを理由に「医者になってほしい」と思っているのなら、
今ある直美、直訪、直精といった進路についても、
子どもが金銭的に困らないのであれば、それでいいはずです。
美容でも、訪問でも、精神科でもいい。
本人が稼げて、家族が困らずに暮らせるならそれでいい。
そう考えるのが筋でしょう。
なぜなら、もともと医師という職業を勧める理由の一つが、
「安定して生きていけるから」なのですから。
けれど、この考え方にはどこか危うさもあります。
結局のところ、それは
「自分とその家族さえ幸せならそれでいい」
という発想に繋がりやすいからです。
人間は生きていくうえで、大なり小なり、自分に利益が流れるように考えます。
我田引水の発想は、誰の中にもあります。
それは責められるべき特別なことではなく、社会そのものがそういう仕組みで動いているからです。
僕はその現実を理解したうえで、
人間の飽くなき欲望の行き着く先を静かに見つめながら、
少なくとも自分自身の欲望くらいはコントロールして生きていきたいと思っています。
そして、親が子どもに本当に伝えるべきことは、
「医者になれば稼げる」ということではないはずです。
金融教育を無理に押しつける必要はないと思います。
けれど、世の中の最低限の仕組みとして、
人は誰かに、そして世の中に価値を提供するからこそ報酬を得られる。
そのことは伝えるべきだと思います。
医師という職業だから、これだけの報酬をもらえて当然。
その考え方は、制度の中では間違いではないのかもしれません。
実際、資格や制度に守られている部分はあります。
でも、その発想に寄りかかりすぎるのは、
僕はどこか貧しいマインドだと思います。
そして、あまり幸せな考え方でもないと思います。
大事なのは、肩書きに守られることではなく、
自分はどんな価値を提供できるのかを考えることです。
自分の価値を高めることです。
いま誰かに何を渡せているのか。
社会に対して何を返せているのか。
そういう視点を持つことのほうが、
よほど健全で、よほど豊かな生き方だと思います。
親が安心したいがために、
子どもを医者にしようとする。
それは一見、愛情のように見えて、
ときに子どもの人生を壊してしまうこともあるのだと思います。
本当に大切なのは、職業名ではない。
生きる力です。
柔軟な心です。
賢い体と、丈夫な心です。
誠実に生きていれば、お天道様は見ている。
僕は今でも、どこか本気でそう思っています。
どうせ人はいつか死にます。
医者になっても、ならなくても、それは同じです。
それでも自分は何のために生まれてきたのか。
どんな価値を人に残せるのか。
まだ小さな息子たちを見ながら、
そんなことを毎日のようにふと思います。


コメント