今日は子どもの発表会でした。
子どもたちの無邪気な熱量に、こちらも「自分も頑張らなきゃ」と力をもらう。
きっと他の親も、同じように感じている。
というか、できればそう感じてほしいなと思いました。
子どものエネルギーって、ストレートでいい。
余計な計算も、見栄も、保身もない。
ただそこに“今”がある。
そしてふと考える。
このエネルギーは、これからどこに向かっていくんだろう。
大人になる過程で、うまく使いこなせるようになるんだろうか。
それとも、どこかで削られて、丸められて、薄められていくんだろうか。
子育てに悩む親はたくさんいます。
でも、子は育つ。
親の思い通りにはならないし、なる必要もない。
子どもは大人とは全く違う“個”です。
見守り、寄り添う。
親も一緒に並走する姿勢。
そして何より、親が「自分の人生を生きる姿勢」。
それが子どもにとって、いちばん影響力を持つんじゃないかと思っています。
ここから独断と偏見のクソ教育論。
僕は、教育が“点数”や“評価”に寄りすぎると、たぶん人は弱くなると思っています。
正確には、「点を取る力」はつくけど、「生きる力」は痩せる。
評価されるために頑張るのは、短期的には強い。
でもそれは、誰かの物差しがないと立てない人間を作る。
そして怖いのは、本人がそれを“努力”だと勘違いしてしまうことです。
本当に大事なのは、
思い通りにならない現実に出会ったときに折れないこと。
不安を抱えながらも一歩踏み出せること。
うまくいかない日にも、自分を投げないこと。
人に勝つことじゃなく、人生に負けないこと。
なのに社会は、相変わらず“わかりやすい指標”が大好きです。
テスト、偏差値、順位、内申、資格。
それらは便利だけど、便利すぎて、人の成長を雑にしてしまう。
子どもの熱量は、最初から強い。
問題は、その火をどう扱うか。
燃やすのか、灯すのか。
他人に見せるための炎にするのか、自分を照らす灯りにするのか。
いい仕事をしましょう。
そうすれば、自ずと運も巡り、いい気も入り込んできます。
子どもに伝わるのは、親の“説教”じゃなくて、親の“背中”です。
さて、発表会の最後に、幼稚園でリトミックを教えている先生のピアノ演奏がありました。
騒がしい中での演奏でしたが、何か染み込んでくる音色があった。
子どものために弾いているのか。
育児に疲れた親にも癒しを届けたいと思って弾いているのか。
そんな気がしました。
感謝、感謝。

芸術は、生活の土台にはならない。
少なくとも、すぐにお腹は満たしてくれない。
でも、こうやって暮らしに小さな花を届けてくれる。
教育っていうのは、たぶんこの“花”の部分が抜け落ちやすい。
数値化できないもの、説明しづらいもの、効率の悪いもの。
でも、本当はそこにこそ、人間の芯がある。
そんなことを思い出させてくれた発表会でした。
レオ・レオニ作
『フレデリック ちょっとかわったネズミのはなし』を、ふと思い出しました。
冬に備えて集めるのは、食べ物だけじゃない。
言葉や、光や、色や、音。
生きるって、そういうものだよな、と。



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