物は考えようで ― 国語が苦手な医者が、それでも文章を書く理由

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僕は昔から国語が苦手でした。
文章を読むのも書くのも得意ではなくて、高校生のときセンター試験の国語は偏差値50を下回っていました。
それでも、運よく国公立の医学部に合格できたのは、今振り返ってもほとんど奇跡だと思っています。

そんな僕が今はブログを書いていますが、正直いま出している記事も「不完全」で「まとまりがない」と感じることが多いです。
それでもあえて公開しているのは、「下手でも書き続けること」に意味があると思っているからです。


以前、東大理Ⅲを卒業した先生が「国語力とは精神年齢だ」と言っていました。
なるほどな、と感じるところがあります。
精神年齢が高いほど、物事の背景を想像したり、人の気持ちを汲み取ったりする力が育ちます。
それはそのまま、読解力や表現力にもつながっていくのでしょう。

ただ、同時にこうも思います。
「精神年齢が高い」とは、いったいどういう状態なのだろうか、と。

たとえば、世の中を達観しすぎて、何にも挑戦せず、どこか諦めきった世捨て人のようになってしまうのなら、それはそれでつまらない生き方かもしれません。
逆に、精神年齢が低いまま、周りの人に迷惑をかけるような稚拙な行動をとるのも、やはり品がない。


僕が大事にしたい「精神年齢の高さ」は、
幾つになっても挑戦できること
世の中も自分も、簡単には諦めないこと
この2つを忘れない状態のことかな、と思っています。

だからこそ、今もこうして、ヘンテコな文章でも構わずブログを書き続けています。
読みづらいところもあるかもしれません。ロジカルに整理されていない部分もあるでしょう。
それでも、「不完全な自分ごと、そのまま出していくこと」自体が、僕なりの挑戦であり、精神年齢を育てるトレーニングなのだと考えています。

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