本質を考える医師です。
「不幸とは感情であり、幸せとは意思である」という言葉を考察してみました。そこで思ったのは、感情で判断するところの「不幸」とはいったいなんなのか?
損得が人の心を支配している?
多くの人は損得で物事を判断することが多いのではないかと思います。「損をすること」は即ち「不幸である」と考えるのは至極当然な思考だと思います。
・人間関係の「損」
・仕事や地位の「損」
・お金の「損」
自分は損をしていると不満に思うことが多い人もいるかと思います。損すること、何かを失うこと、何かが手に入らないことは本当に不幸なことなのでしょうか?
損することを変換する
例えば、お金を失う=不幸ではなく、不要な執着を手放した=軽やかになったと考えれば、むしろ自由がます可能性もあります。損することを脳内でしっかりと変換していくことが大事だと思います。
「損することは断捨離である」という考えのもと、今目の前で起きた「不幸」な出来事を変換してみたらどうでしょうか?そうすれば、少しずつこの世の真理に近づけるかもしれません。
・人間関係の「損」
特定の人に執着することによってこの後余計なトラブルに巻き込まれたかもしれない。自分が望んだ人間関係を構築できなかったと思わずに、自分にとってそれは必要のないものだったと思うのはどうでしょうか。
・仕事や地位の「損」
望んでいた地位を得られなかったことで、かえって役職にとらわれない自由な仕事ができ自分の評価や自己満足度が上がるかもしれない。地位を得ることによる制約があるかもしれません。良い出来事の反対側もしっかりと見つけることができますか?
・お金の「損」
損をしっかり受け入れられることや痛みを伴う行動により次回から同じ過ちを繰り返さないようになるかもしれません。自分は金銭的な損が発生した際には、必ず、そのお金は「誰かへのお賽銭」として必要経費であったと思うようにしています。
不要なものを手放すチャンス
「損をする」というのは、実は「不要なものを手放すチャンス」なのかもしれません。このような考え方が習慣化する、自分の中で根付いてくると、不幸とは「何かを失うこと」ではなく「失ったものをどう解釈するか」によって決まると感じられるようになります。
自分はこれまで何か悪いこと(のように思えること)が起きた時は、「人生±0」と思うようにしていました。しかしそれは、起きたことを「不幸なこと」と解釈している時点で今回の話とは少し噛み合わないような気がしています。
つまり、もっと解釈が進むと、起きることに良し悪しはそもそも存在しない。「プラスもなければマイナスもない」と思うことが究極なのではないでしょうか。ただ我々の魂が成長を続ける以上、何か起こるたびに魂は学び、前進するはずですので、本当は「プラスなことしかない」というのが真理になると思います。
自分もまだまだ色々なことに対してこのようなマインドを持つことは難しいです。ただ歳を重ねることにこういった考えが少しずつできるようになってきました。それは成長なのか、衰えなのか、諦めなのか、わかりませんが、できているように感じていることが大事ではなかろうか、と。
そんな気がしています。
リンク
👉 https://onorenoo.com/【生】不幸とは感情であり、幸せとは意思である/
👉 https://onorenoo.com/【生】不幸とは感情であり、幸せとは意思である-2/
👉 https://onorenoo.com/【生】不幸は感情であり、幸せとは意思である③/
👉 https://onorenoo.com/【生】幸せとは意思である/
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